成功までの道のり~ハワイ生活~
2012.03.14
アロハ!ハワイオブジュンコの大切なお客様
今日、ハワイニュースレターでお馴染のハワイアンジョイ深山氏から
3世が出来た、とHappyメールが届きました。
ハワイに住み始めて40年・・・・当時、1ドル¥360の時代から
今の成功を掴むまでの事が、掻い摘んでかかれていたので紹介させて頂きますね。
今日は本当に嬉しいニュースです。40年前以上、初めてハワイに住み始めた頃、自分に3世が出来る考えは全くありませんでした。将来のことより現実の生活の稼ぎに追われていました。食料、家賃、大学の授業料などの支払いです。アルバイトをしていた中国人(華僑)オーナーのお店の傍に白人と日本女性が経営していた「ジョージ」テイクアウとの小さなお店がありました。
「ふるさと」日本食レストランの板前達と仲良くなるまでは「ジョージ」のお陰で食べることには助かりました。私は助かりましたが6人の仲間の食事代を稼ぐ事大変でした。当時も今も学生が正式に働くことは出来ません。日本人は日本食レストランで皿洗い、掃除、片付けなどのもぐりで働くことが一般的でした。私のようにA-1のお店(ワイキキにあるABCのようなお店)で働くことは珍しいアルバイトでした。当時、A-1のお店ではアメリカ本土からの観光客が時々、1ドル硬貨、50セント硬貨で買い物します。1ドル硬貨をお店で交換して、ワイキキビーチに出かけて行商です。1ドル硬貨が5ドル〜8ドルに化けます。化けたドル札で仲間6人と私(計7名)の食事になりました。私達は7人の侍とネーミングして貧乏生活でしたが楽しい思いがいっぱいあります。
「ふるさと」レストランの板前達と仲良くなってからは食べることには全く心配ありません。板前達がいつもオーナーに黙って美味しい食事をせっせと作ってくれました。ただ飯が長くつづきました。当時の為替は360円の時代でした。日本からの送金は親に悪く言えませんでした。結果的にはハングリーになり、ビジネスの基本を学びました。しばらくしてから結婚して新生活が始まりました。スタートした時の全財産(所持金)は$50でした。
女神様の援護があり、少しづつ余裕で来ました。アサヒビールの仕事、そして永住権取得、後にオリンピアビールのセールスマネイジャーになり給料が良くなり、懸命に頭金を貯めて、最初のコンドミニアム(1LDK)を結婚3年後に購入出来ました。徐々に不動産が増えて、長男が生まれる前の年(1979年11月)にカハラ地区に家を購入しました。翌年の4月に息子が生まれ、2年後に娘が生まれ二人の子供をカハラで育てることが出来ました。1980年に生まれた息子が2年前に長野県出身(ハワイ大卒)の女性と結婚して、本日待望の3世がお腹に出来た(1cm余り)と嬉しいニュースです。10月には本当の爺になります。息子と嫁に感謝です。40数年前は私一人、結婚して二人、二人の子供で来て四人、嫁で五人、そして孫で六人目の深山の姓名を名乗ります。
深山誠二
ハワイで成功するには、相当の覚悟が必要です。
単に、ハワイに住みたい!だけでは、
ハワイの神様も微笑んではくれません・。
ハワイに住んでいた時、感じていた事・・・
ハワイって、本当に志をもって渡ってきている人がいない、、
皆、何か..現実から逃避するためにハワイに来て、
何でもいいから仕事をみつけ、食いつないでいる、、
日々、なんだか悲しい現実を突き付けられいるように思えて仕方なかった・・。
地道にコツコツ...我武者羅に..
根気強く、本気で、夢・ゴールに立ち向かう人、、、
そんな人達には、日本ハワイに限らず、
どこでも、成功の神様は後押してくれる!、と信じるジュンコでした~。
mahalo nui loa Junko
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